明治・大正・昭和初期における日本棋院創立までの日本囲碁史
I. 序論:明治維新黎明期の囲碁界
A. 江戸時代の囲碁とその遺産、そして明治維新の衝撃
江戸時代、日本の囲碁界は、本因坊家、井上家、安井家、林家という四つの家元が幕府の庇護のもと、厳然たる階層秩序を形成し、その頂点に君臨していた 1。この家元制度は、棋士たちの身分と生活を保障し、年に一度、将軍の御前で対局を披露する「御城碁」は、棋士にとって最高の栄誉とされた 1。この安定した体制は、囲碁の技術的深化と文化的洗練を促し、多くの名人を輩出した。
しかし、1868年(慶応4年/明治元年)の明治維新は、この盤石に見えた囲碁界の基盤を根底から揺るがした。徳川幕府という最大のパトロンを失い、家元が受けていた家禄は奉還され 2、棋士のステータスシンボルであった御城碁も1861年(万延2年)を最後に中止された 7。これにより、囲碁界はかつてない深刻な低迷期へと突入することになる 7。
この変革は、単に経済的な困窮をもたらしただけではなかった。江戸時代の家元制度は、経済的基盤であると同時に、囲碁の権威と伝統を象徴する精神的な支柱でもあった。幕府の崩壊は、囲碁界が新たな社会の中で自らの存在意義や価値を根本から問い直されるという、「存在意義の危機」とも呼ぶべき事態を引き起こした。武士階級の没落は、彼らの重要な教養の一つであった囲碁の社会的地位をも揺るがし、新しい時代における囲碁の役割を模索することが、囲碁界にとって喫緊の課題となったのである。幕府の後ろ盾を失ったことによる低迷 7、そして文明開化の名の下に西洋文化が重視される風潮 9 は、伝統文化である囲碁にとって逆風となった。
B. 初期苦闘と再興の萌芽(本因坊秀和の努力など)
このような混乱と困窮の中で、当時の囲碁界の重鎮たちは、何とか伝統の灯を絶やすまいと苦闘した。その代表的な人物が、本因坊秀和である。秀和は「三の日会」といった研究会を主宰し、棋士たちが研鑽を積む場を設け、囲碁界の再興への希望をつなごうと試みた 8。しかし、これらの努力も、深刻な資金難などから長続きはしなかった 8。
棋士たちは、旧体制に代わる新たなパトロンや、時代に適応した組織形態を必死に模索し始めた。秀和のような伝統的家元の当主は、旧来の権威を保持しつつ新しい時代に適応するという、極めて困難な課題に直面していた。「三の日会」のような試みは、伝統的な枠組みの中で再興を目指す動きであったが、社会構造そのものが根本的に変容する中で、その限界も明らかであった。この伝統維持と革新の間のジレンマこそが、後のより抜本的な組織改革、すなわち方円社のような新しい動きへと繋がる伏線となったのである。
II. 明治時代(1868~1912年):逆境の中の新たな道筋
明治維新による混乱は、囲碁界に深刻な打撃を与えたが、同時にそれは新しい秩序と価値観が生まれる土壌ともなった。この時代、棋士たちは逆境の中で新たな道を模索し、近代的な囲碁界の礎を築き始めた。
A. 方円社の台頭:近代化の推進力
1. 村瀬秀甫と新囲碁秩序への展望
明治初期の混迷期を経て、囲碁界に新たな動きが現れる。その象徴が、1879年(明治12年)に設立された「方円社」である。村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)と中川亀三郎を中心に結成されたこの組織は、従来の家元制度の封建的なあり方を批判し、実力主義を標榜した 8。方円社は、棋士の集団による自主的な運営を目指した、日本初の近代的なプロ棋士団体と評価できる 12。
方円社が掲げた「実力主義」という理念は、単に囲碁界内部の要求から生まれたものだけではなかった。それは、明治という時代が持つ「文明開化」や「立身出世」といった社会全体の大きな潮流と深く共鳴するものであった。旧体制の権威が揺らぎ、個人の能力や成果が重視される新しい価値観が社会全体に広がる中で、その波が囲碁界にも及んだ結果と言えるだろう。西洋文化が積極的に導入され、旧弊を打破しようとする気運 9 が、方円社の革新的な試みを後押しした側面もあった。
2. 機関誌「囲棋新報」と初期囲碁ジャーナリズムの影響
方円社の革新性を最もよく示すものの一つが、1879年(明治12年)4月に創刊された機関誌「囲棋新報」である 6。これは、世界初の囲碁専門雑誌とも言われている 8。
「囲棋新報」の主な内容は、方円社に所属する棋士たちの対局の棋譜と、村瀬秀甫らによる詳細な評であった 8。また、方円社が独自に認定した段級位も、この雑誌を通じて発表された 8。これにより、棋譜の迅速な公開が可能となり、囲碁に関する知識の普及、方円社の活動の宣伝、そして不特定多数の読者に対する囲碁の魅力発信に大きく貢献した 2。さらに、後にはより趣味性を高めた「方円新報」(後に「碁界新報」と改題)や、初級者を対象とした「囲碁初学独修新報」といった姉妹誌も発行され、読者層の拡大が図られた 8。
「囲棋新報」が果たした役割は、単なる情報伝達に留まらない。棋譜や解説、段級位認定といった、かつては家元制度という比較的閉鎖的なルートを通じて伝えられていた情報を、雑誌という開かれたメディアを通じて提供したことは画期的であった。これは、家元が独占していた権威の一部を相対化し、囲碁に関する知識をより多くの人々に開かれたものにする、いわば「知識の民主化」の側面を持っていたと言える。会員に棋譜を届けるという行為 6 は、まさにその象徴であった。
3. 段級位制度の革新と国際的交流(オスカー・コルセルト)
方円社は、制度面でも革新的な試みを行った。従来の段位制度に加え、より門戸を広げることを意図して級位制を導入したのである(ただし、後に段位制に復帰) 2。この級位制導入は、単に制度を変更するという以上に多面的な意義を持っていた。第一に、初心者やアマチュアにとって囲碁への参入障壁を下げ、裾野を拡大することで愛好者層の増加を目指した。第二に、免状発行の範囲を広げることで、財政基盤の確保を図るという現実的な側面もあった 8。そして第三に、実力主義をより明確に可視化する手段としての役割も期待された。
さらに特筆すべきは、方円社の国際的な視野である。村瀬秀甫は、当時日本に滞在していたドイツ人技師オスカー・コルセルトに熱心に囲碁を指導した。コルセルトは帰国後、ヨーロッパの雑誌に囲碁を紹介する記事を発表し、これがヨーロッパにおける囲碁の歴史の始まりとなったとされている 8。秀甫がこれを「海外普及の好機」 8 と捉えていたことは、彼の先見性を示すものであり、当時の日本が国際社会における自国の文化的位置づけを意識し始めていたことの表れとも解釈できる。
B. 本因坊派の動向:伝統と変革の狭間で
1. 本因坊秀栄と囲碁奨励会
一方、伝統的な権威の象徴であった本因坊家も、時代の変化に対応しようと動きを見せる。中心となったのは、十七世、そして後に十九世本因坊を継ぎ、名人の称号も得た本因坊秀栄である。秀栄は、新興勢力である方円社との間で対立と和解を繰り返しながらも、本因坊家の権威を保持し、囲碁界における指導的地位を維持しようと努めた 8。
その具体的な行動の一つが、1892年(明治25年)に設立した「囲碁奨励会」(後に「四象会」と改称)である 9。これは、明らかに方円社に対抗する意図を持ったものであり、本因坊門下や系列の棋士たちの研鑽と結束を図るための組織であった。秀栄のこの動きは、方円社という新しい勢力に対する伝統的権威の防衛戦略と見ることができる。結果として、明治中期の囲碁界は、本因坊派と方円社派という二大勢力が対峙し、互いに競争し緊張関係を保ちながら発展していくという構造が生まれた。この二極化は、一方で対立を生みながらも、他方で棋士たちの活動を刺激し、囲碁界全体の活性化に繋がった側面もあった。
C. 新聞碁の登場とその社会的影響
明治期の囲碁界におけるもう一つの重要な変化は、新聞という新しいメディアとの結びつきである。1878年(明治11年)、「郵便報知新聞」が初めて碁譜を掲載したのを皮切りに 6、他の新聞社も追随し、囲碁欄を設けるようになった。
新聞社が棋士に対局料を支払うシステムが確立されると、これは幕府からの禄を失った棋士たちにとって新たな、そして重要な収入源となった 6。それ以上に大きな影響を与えたのは、囲碁の一般への普及である。新聞を通じて定期的に棋譜や関連記事が一般大衆の目に触れることで、囲碁への関心が高まり、愛好者層の拡大に大きく貢献した 6。
新聞碁の登場は、プロ棋士の社会的位置づけにも変化をもたらした。それまで一部の愛好家やパトロンの間で知られる存在であった棋士たちが、新聞というメディアを通じてその対局内容や名前が広く報じられることで、「公共のコンテンツ」を提供する専門家として認識されるようになった。これは、棋士が単なる遊芸家から、大衆の注目を集め、尊敬される専門職へと、その社会的地位を向上させる一つの契機となったと言えるだろう。
D. 明治期主要棋士の紹介とその貢献
この激動の明治時代において、囲碁界を牽引したのは個性豊かな棋士たちであった。幕府の庇護を失った後の困難な時期を支えた本因坊秀和。革新的な方円社を率い、近代囲碁の父とも称される村瀬秀甫(本因坊秀甫)。伝統の牙城である本因坊家を守りつつ、方円社と覇を競った本因坊秀栄。そして、方円社の設立と運営に尽力した中川亀三郎。これらの棋士たちは、それぞれの立場と考え方で、明治囲碁界の方向性を形作った。
また、時代は下るが、幕末に夭折した天才棋士、本因坊秀策の遺した棋譜とその名は、依然として囲碁界に大きな影響力を持ち続けていた 7。彼の名は、囲碁の深遠さと芸術性の一つの象徴として、後進の棋士たちにとって大きな目標であり続けた。
明治期の囲碁界は、秀甫のような革新家、秀栄のような伝統の守護者、そして彼らの間で活動した多くの棋士たちの個性と力量が複雑に絡み合い、ダイナミックな様相を呈していた。彼らの間のライバル関係や協力関係、時には対立関係が、そのまま囲碁界の組織構造や発展の方向性を左右したのである。この時代の棋士たちの苦闘と情熱が、続く大正、そして昭和初期の日本棋院設立へと繋がる基礎を築いたと言える。
III. 大正時代(1912~1926年):分裂、対立、そして統一への胎動
明治時代に蒔かれた変革の種は、大正時代に入ると新たな展開を見せる。囲碁界はさらなる分裂と対立を経験する一方で、それらを乗り越えて統一組織を希求する動きが本格化する。
A. 分裂する碁界:諸派の乱立
1907年(明治40年)の本因坊秀栄の死後、本因坊家は後継者問題を巡って混乱し、その権威には陰りが見え始めていた。大正時代(1912年~1926年)に入ると、旧来の本因坊派(後には中央棋院と連携)と方円社という二大勢力に加え、新たな組織が次々と旗揚げされ、囲碁界は群雄割拠の様相を呈した 9。
その中でも特に注目すべきは、以下の団体である。
- 裨聖会(ひせいかい): 1922年(大正11年)、鈴木為次郎、雁金準一、瀬越憲作、高部道平といった実力派棋士たちが中心となって設立した 8。裨聖会は、総互先での対局におけるコミ出し制度や、持ち時間制の導入など、今日の囲碁界では当たり前となっている近代的な手合制度をいち早く採用したことで知られる。これは、より公平で競技性の高い囲碁を目指す先進的な試みであった。
- 中央棋院(ちゅうおうきいん): 当初、方円社と本因坊派の合同を目指す動きの中から生まれたが、設立後間もなく資金運用を巡る対立などから分裂し、本因坊派が中心となって独立した組織となった 8。
- 六華会(りっかかい): 小岸壮二ら、主に若手の有望棋士たちによって結成された研究会であり、新しい才能の育成と交流の場となった 8。
これらの動きの結果、大正中期の囲碁界は、中央棋院、方円社、裨聖会という三つの主要な団体が鼎立し、互いに競い合う「三派鼎立時代」と呼ばれる状況が現出した 8。
一見すると、この分裂状態は囲碁界の混乱と弱体化を招いたように見えるかもしれない。しかし、この時代は同時に、革新的な試みが次々と生まれた時期でもあった。特に裨聖会によるコミ制度や持ち時間制の導入は、囲碁の競技性を高め、後の日本棋院における制度設計にも大きな影響を与えた。この意味で、大正期の分裂は、統一へ向かう過程で避けられない「産みの苦しみ」であり、その中から新しい囲碁のあり方が模索された重要な時期であったと評価できる。各派が互いにしのぎを削る中で 9、囲碁界全体のダイナミズムが生まれたとも言えるだろう。
B. 「碁界大合同」への希求
このような分裂と対立が続く一方で、囲碁界全体を統一しようとする「碁界大合同」への希求もまた、日増しに高まっていった。第一次世界大戦後(1914年~1918年)あたりから、その機運は徐々に醸成され始めていた 8。
1922年(大正11年)には、具体的な動きとして「日本囲碁協会」の設立趣意書が配布された。これには、本因坊秀哉以下の坊門、方円社、関西や中京の棋士たちも名を連ね、政財界からも多くの賛同の声が寄せられた 8。この構想は、分裂状態が続く囲碁界の現状に対する棋士たちの危機感と、統一による将来の発展への強い期待感の表れであった。
分裂状態は、棋士の活動基盤を不安定にし、対局機会の確保や生活の安定を脅かすものであった。また、囲碁界全体の社会的影響力も分散され、囲碁の普及や地位向上にとってもマイナスであった。統一団体を設立することで、棋士の待遇改善、囲碁の普及活動の強化、そして対外的な交渉力の向上など、多くのメリットが期待されたのである。「次第につぶし合いのようになり、まとまろうという話になった」 18 という証言は、当時の切実な状況を物語っている。
C. 関東大震災(1923年):悲劇が生んだ結束への弾み
碁界大合同への動きが徐々に具体化しつつあった矢先の1923年(大正12年)9月1日、関東地方を未曾有の大災害、関東大震災が襲った。東京を中心に壊滅的な被害をもたらしたこの震災は、当然ながら囲碁界にも甚大な打撃を与えた 2。多くの棋士が生活の基盤を失い、対局場も被害を受け、囲碁活動は一時的に停滞を余儀なくされた。
しかし、この悲劇は皮肉にも、囲碁界の統一への動きを加速させる触媒として作用した。共通の困難に直面したことで、各派の指導者や棋士たちは、内部の対立よりも団結の必要性を痛感するようになったのである 6。物理的な活動拠点の喪失や経済的な困窮は、各派が単独で再建を目指すことの困難さを浮き彫りにし、大同団結こそが生き残りの道であるとの認識を共有させた。震災後、中央棋院と裨聖会が方円社に対し、合同を拒否するならば新聞棋戦での対局を拒絶すると迫るなど、具体的な動きも現れた 8。まさに、関東大震災が碁界大合同の機運を一気に高める 6 という、歴史の皮肉であった。
D. 大倉喜七郎男爵:不可欠だった後援者
碁界大合同と、その結実である日本棋院の設立を語る上で、大倉喜七郎男爵の存在は絶対に欠かすことができない。大倉財閥の二代目総帥であった大倉喜七郎は、自身も熱心な囲碁愛好家であり、その財力と影響力をもって、日本棋院設立に際して経済面で多大な援助を行った 2。
彼の呼びかけと積極的な財政支援が、分裂していた各派をまとめ上げ、日本棋院創立という大事業を実現させるための決定的な推進力となった。具体的には、1924年の東西棋士を集めた帝国ホテルでの協議会の開催 9 や、その後の日本棋院会館建設のための資金提供 9 など、その貢献は計り知れない。
大倉喜七郎の役割は、単なる資金提供者のそれに留まらなかった。彼の社会的地位と財界における広範な影響力は、囲碁界の統一という困難な事業に、社会的な「信用」と強力な「推進力」を与えた。彼は、江戸時代の幕府や大名に代わる、近代における新たな形の「パトロン」であり、彼の存在なくして、日本棋院の早期設立は極めて困難であったと言えるだろう。彼の尽力 12 は、まさに歴史的なものであった。
E. 統一運動の主導者たち(本因坊秀哉、瀬越憲作など)
大倉喜七郎という強力な後援者を得て、碁界大合同の動きは一気に加速したが、その実現には囲碁界内部からの主導者たちの努力も不可欠であった。
その筆頭に挙げられるのが、当時の棋界の第一人者であり、二十一世本因坊、そして名人の称号も持つ本因坊秀哉である。本因坊家という最も権威ある家元の当主として、また当代随一の実力者として、秀哉の言動は囲碁界全体に大きな影響力を持っていた 9。彼が統一に賛同し、積極的に関与したことは、他の棋士たちの合意形成を促す上で極めて重要であった。
また、実務面で中心的な役割を果たしたのが、裨聖会の設立にも関わった瀬越憲作である。瀬越は、各派との交渉や、新しい組織の設立に向けた具体的な準備作業において、その手腕を発揮した 8。彼の冷静な判断力と実行力が、複雑な利害関係を調整し、大合同へと導く上で大きな力となった。
この他にも、鈴木為次郎をはじめとする多くの棋士たちが、それぞれの立場で統一運動に尽力した。日本棋院の設立は、大倉喜七郎のような財界の巨人だけでなく、本因坊秀哉のような伝統的権威の象徴、そして瀬越憲作のような実務能力と交渉力に長けた棋士といった、多様なリーダーシップが結集した結果であった。それぞれの立場からの献身的な働きかけが、重層的な利害と思惑が絡み合う囲碁界を、ついに一つの大きな流れへとまとめ上げたのである。
IV. 日本棋院の誕生(1924年):日本囲碁界の新時代
大正期の分裂と対立、そして統一への希求という複雑な道のりを経て、ついに日本囲碁界は新たな時代を迎える。その象徴こそが、日本棋院の設立である。
A. 結実:日本棋院の創立
1924年(大正13年)7月17日、多くの棋士たちの悲願であった統一組織、日本棋院が創立された 2。これは、本因坊秀哉名人を中心とする本因坊門、解散して合流した方円社 8、そして裨聖会など、当時の日本のプロ棋士のほとんどが参加した「碁界大合同」の輝かしい成果であった 8。
日本棋院の創立は、単に複数の団体が一つにまとまったという以上の歴史的意義を持つ。それは、江戸時代から続く家元制度が実質的に終焉を迎え、日本の囲碁がアマチュアの遊戯や一部専門家の閉鎖的な活動から、組織化されたプロフェッショナルな「棋道」へと明確に転換する画期的な出来事であった。この統一組織の誕生により、棋士の育成、公式棋戦の運営、段位認定システムの標準化、そして囲碁の普及活動などを、一元的かつ体系的に行うための強固な体制が初めて整ったのである。それは、まさに日本囲碁界の近代化が達成された瞬間であったと言える 12。
B. 初期組織、指導者(牧野伸顕、大倉喜七郎)、そして使命
創立された日本棋院の初代総裁には、当時の有力な政治家であった牧野伸顕が、そして副総裁には設立の最大の功労者である大倉喜七郎が就任した 9。この人選には、日本棋院を単なる囲碁愛好家の団体ではなく、国家的な文化機関として位置づけようとする強い意志が込められていた。牧野伸顕のような政界の大物を総裁に据えることで、組織の社会的信用度を高め、大倉喜七郎の財政支援と合わせて、官民一体となって囲碁の振興を図ろうとする姿勢が明確に示されたのである。
日本棋院の設立趣意書には、その使命として「棋道の継承発展及び内外への普及振興を図るとともに、棋士の健全な育成を行い、囲碁を通して文化の向上に資すること」が謳われた 12。この理念に基づき、大倉喜七郎の経済的援助によって、1926年(大正15年)には東京麹町永田町に日本棋院の会館が建設され、活動の拠点となった 9。
C. 初期の柱:大手合制度と機関誌「棋道」の発刊
日本棋院の創立初期における活動の二大柱となったのが、「大手合制度」の整備と、機関誌「棋道」の発刊であった。
大手合制度
大手合は、棋士の昇段を決定するための公式棋戦として、日本棋院設立と同時に整備された 12。当初は「定式手合」と称されていたが、1927年(昭和2年)に「大手合」と改称された 27。
この制度の最大の特徴は、客観的な基準に基づいた点数制の導入である。互先から二子までの各手合割(ハンディキャップ)ごとに、勝敗に対する白番・黒番それぞれの点数が厳密に定められ、一定の点数に達することで昇段が認められる仕組みであった。また、棋士には毎月2局の対局が義務付けられ、手合割も従来の二段差1子から三段差1子へと改定された 31。
1927年(昭和2年)からは、朝日新聞社が大手合のスポンサーとなり、棋譜が新聞紙上に掲載されるようになった 27。これにより、大手合の権威は一層高まり、一般へのアピール力も増した。当初は東西対抗形式が取られたが、党派意識の弊害が指摘されたため、後に甲組・乙組、さらに第一部・第二部といった形に編成が変更されていった 31。
大手合制度の確立は、プロ棋界に実力主義に基づく明確な秩序をもたらした。客観的な昇段システムは、棋士間の公正な競争を促し、囲碁界全体のレベルアップに大きく貢献した。新聞社との提携は、棋戦の社会的認知度を高め、囲碁の普及にも繋がるという、まさに一石二鳥の効果を生んだのである。
機関誌「棋道」
日本棋院のもう一つの重要な柱が、1924年(大正13年)10月に創刊された機関誌「棋道」である 12。創刊号は68ページ、定価50銭で発行された 33。
「棋道」は、大手合をはじめとする棋戦の情報や棋譜の掲載はもちろんのこと、囲碁界のニュース、棋士の紹介、戦術や定跡の解説、囲碁の歴史や文化に関するコラム、さらには独自の企画記事などを幅広く掲載し、単なる情報誌としての機能に留まらず、メディアを通じた囲碁普及の重要な役割を担った 12。
この雑誌は、棋士だけでなく、広範な囲碁愛好家層の知的欲求に応えるものであった。囲碁に関する多様な情報や読み物を提供することで、「囲碁文化」そのものを創造し、発信するプラットフォームとしての機能も果たしたと考えられる。これにより、囲碁コミュニティの結束を強め、囲碁の知的遊戯としての側面と大衆文化としての側面の両面からの発展を促した。
その他の出版物
日本棋院は、「棋道」以外にも複数の出版物を発行し、多角的な情報発信と読者層の開拓に努めた。1925年(大正14年)には、「棋道」の姉妹誌として「爛柯(らんか)」が創刊された。この雑誌は、1928年(昭和3年)に「囲碁倶楽部」と改題されている 9。また、大手合の情報を迅速に伝えることを目的として、1927年(昭和2年)には「大手合週報」も発刊された 35。
これらの複数の雑誌の発行は、日本棋院が、公式機関誌としての「棋道」に加え、より大衆向けの娯楽性の高い雑誌(「爛柯」改め「囲碁倶楽部」)や、速報性を重視した週報(「大手合週報」)といった形で、多様な読者のニーズに応えようとしていたことを示唆している。このような出版戦略の多角化は、囲碁情報の流通を促進し、囲碁文化の裾野を広げる上で効果的であったと考えられる。
D. 新たな試練:棋正社の分離
順風満帆に見えた日本棋院の船出であったが、創立直後には最初の大きな試練が訪れる。1924年(大正13年)10月、雁金準一ら一部の有力棋士が日本棋院の方針に反発し、脱退して新たに「棋正社」を結成したのである 9。これは、設立間もない日本棋院の権威と求心力にとって、大きな挑戦であった。
この事態を収拾し、棋界の分裂を回避するために、1926年(大正15年)には読売新聞社の仲介により、日本棋院と棋正社との間で「院社対抗戦」が開催された。この対抗戦は世間の大きな注目を集め、特に第一戦として行われた本因坊秀哉名人対雁金準一七段の対局は、大正期の囲碁界を代表する名勝負の一つとして語り継がれている 9。結果は日本棋院の圧勝に終わり、これにより日本棋院の実力と棋界における正統性が改めて示されることになった。
棋正社の分離という事件は、日本棋院にとって確かに痛手であったが、この院社対抗戦での勝利は、結果的に日本棋院の権威を内外に確立し、その後の棋界における中心的地位を揺るぎないものにする上で、逆説的ながらも貢献したと言えるだろう。この試練を乗り越えたことで、日本棋院はより強固な組織へと成長していく基盤を固めたのである 21。
V. 結論:一つの時代の終焉、新たな時代の幕開け
A. 総括:明治の動乱から統一組織へ
本報告では、明治維新から日本棋院設立に至るまでの日本囲碁史の変遷を概観してきた。江戸時代に幕府の庇護のもとで栄えた家元制度は、明治維新という未曾有の社会変革によって崩壊し、囲碁界は深刻な低迷期を迎えた。しかし、その逆境の中から、村瀬秀甫を中心とする方円社のような革新的な動きが生まれ、実力主義や機関誌発行といった近代的な試みが導入された。また、新聞という新しいメディアの登場は、棋譜の普及と棋士の新たな収入源確保に貢献した。
大正時代に入ると、囲碁界は裨聖会、中央棋院など諸派が乱立する分裂期を経験するが、その中からもコミ制度や持ち時間制といった重要な革新が生まれた。関東大震災という悲劇は、皮肉にも碁界大合同への機運を高め、大倉喜七郎男爵という強力な後援者の出現と、本因坊秀哉や瀬越憲作ら指導者たちの尽力により、1924年(大正13年)、ついに日本棋院という統一組織が誕生した。
日本棋院は、大手合制度による昇段システムの確立と、機関誌「棋道」を中心とする出版活動を通じて、プロ棋界の整備と囲碁文化の普及に邁進し始めた。棋正社の分離という試練も乗り越え、日本の囲碁界は新たな時代へと確かな一歩を踏み出したのである。
B. この変革期が現代囲碁に持つ永続的意義
明治維新から日本棋院設立までの約半世紀は、日本囲碁史における一大転換期であった。この時期に成し遂げられた変革は、現代の日本のプロ囲碁界の直接的な礎となっている。日本棋院は、その後も幾多の変遷を経ながらも、今日に至るまで日本の囲碁界の中心的な組織として機能し続けている。
この時代に、近代的な囲碁ジャーナリズムの萌芽が見られ、新聞や専門誌が囲碁情報を広く伝え、囲碁文化を形成する上で重要な役割を担うようになった。また、大手合制度に代表される標準化された昇段システムや競技ルールの整備は、プロ棋士の技術向上と公正な競争を促した。さらに、オスカー・コルセルトへの指導 8 や、後の福田正義の渡欧 35 など、断片的ではあるが、囲碁の国際的な普及への意識もこの時期に芽生え始めていた。
明治から昭和初期にかけての日本囲碁界の変革は、西洋近代文明の受容と日本の伝統文化の再編という、より大きな歴史的文脈の中で捉えることができる。この激動の時代に適応し、自らを変革していく過程で培われた組織力、制度設計の知恵、メディア活用の先見性、そして国際的な視野は、20世紀を通じて日本が世界の囲碁界をリードしていく上での重要な基盤となったと言えるだろう。この変革期は、単に過去の出来事としてではなく、現代の囲碁界を理解し、その未来を展望する上でも、永続的な意義を持つのである。
VI. 囲碁の社会構造:大衆化と文化的プレゼンス(明治~昭和初期)
日本棋院の設立に至るまでの道のりは、プロ棋士の世界における組織変革の歴史であると同時に、囲碁という遊戯が日本社会の中でどのように受け入れられ、その文化的地位を変化させていったかの物語でもある。
A. 公共の場における囲碁:専門家サークルを超えて
明治維新以前、囲碁は主に武士階級や知識人の高度な遊戯であり、庶民にとってはやや縁遠い存在であったかもしれない。しかし、明治以降、いくつかの要因が重なり、囲碁は専門家のサークルを超えて、より広い層へと浸透し始める。
その最大の推進力の一つが、新聞碁 6 と囲碁雑誌 8 の登場であった。これらのメディアは、プロの高度な対局を一般大衆の目に触れさせ、囲碁のルールや魅力を解説することで、新たなファン層を開拓した。方円社が導入した級位制のようなランキングシステム 8 は、アマチュアが自らの実力を測り、目標を持って囲碁に取り組むことを容易にし、囲碁へのアクセスを格段に向上させた。
昭和初期(具体的には1933年以降)に木谷實と呉清源が展開した「新布石」運動は、その斬新な発想とダイナミックな展開で、プロ棋界のみならずアマチュアの間にも一大センセーションを巻き起こした 9。これは、囲碁が単なる伝統的な遊戯ではなく、常に進化し続けるダイナミックな知的ゲームであることを強く印象づけ、多くの人々を惹きつけた。
これらの動きは、囲碁がその知的な深みを保持しつつも、その魅力をより広い層にアピールするための積極的な努力がなされたことを示している。結果として、囲碁は一部のエリートや専門家の閉鎖的な趣味から、より多くの人々に楽しまれる開かれた文化活動へと、その性格を徐々に変容させていった。初心者向けの雑誌が発行されたこと 8 や、「新布石」がアマチュアの間で大流行したこと 9 は、増大しつつあったアマチュア層の存在と、この層を囲碁の世界に引き込もうとする棋界の意図を明確に示している。
B. 碁会所と遊戯の場
人々が実際に囲碁を打つ場として、碁会所の存在は重要であった。江戸時代には既に庶民が囲碁を楽しむための碁会所が存在していたことが記録されている 4。明治・大正期における碁会所の具体的な様子を詳細に伝える資料は限られているものの、アマチュアが対局を楽しんだり、時にはプロ棋士から指導を受けたりする場として、これらの施設が機能していたことは想像に難くない。方円社がアマチュアへの指導を行っていたという記録 2 も、そのような場の存在を裏付けている。
37 によれば、囲碁が庶民の間に広まるにつれて、人々は床屋や風呂屋といった場所に集まって碁を打つようになり、やがて専門の碁会所が誕生したとされる。台湾の状況について触れた 40 は、大正初期の日本を反映して、台湾では囲碁はまだ主にエリート層の娯楽であったとしつつも、棋士育成の必要性は認識されていたと述べており、日本本土での普及の進展を間接的に示唆している。
日本棋院が1926年に永田町に建設した新しい会館 9 は、プロ棋士の活動拠点であると同時に、アマチュアにとっても囲碁に触れる中心的なハブとしての役割を果たしたであろう。
碁会所は、単に囲碁を打つための物理的な空間であっただけでなく、より広範な社会的機能も担っていたと考えられる。そこは、共通の趣味を持つ人々が集い、交流するコミュニティ形成の場であった。また、プロ棋士や上級者が初心者を指導することを通じて、囲碁の技術や文化が世代を超えて伝承される拠点でもあった。江戸時代からの碁会所の歴史的先例 24 と、方円社のような組織によるアマチュア指導の取り組み 2 は、そのような場が明治・大正期においても継続し、あるいは新たな形で進化していたことを示唆している。
C. 文学とメディアにおける囲碁
明治から昭和初期にかけての囲碁の文化的プレゼンスは、文学作品やメディアにおけるその扱われ方にも表れている。
新聞碁は、日常的に囲碁情報を大衆に届ける主要なメディアであったことは既に述べた通りである 6。これに加え、文学作品もまた、囲碁の文化的イメージを形成する上で重要な役割を果たした。
その代表例が、川端康成の小説『名人』である。この作品は、1938年(昭和13年)に行われた本因坊秀哉の引退碁を題材としており、囲碁の勝負の厳しさ、芸の深奥さ、そして棋士という存在の悲哀を見事に描き出し、囲碁を題材とした文学作品の古典として高く評価されている 9。
また、夏目漱石の『吾輩は猫である』などの作品にも、囲碁に関する描写が見られる 39。これは、当時の知識人や文化人の間で、囲碁が一定の嗜みとして受け入れられていたことを反映している。
新聞の棋譜連載が、囲碁の「情報」としての側面を担っていたのに対し、漱石や川端の文学作品における囲碁描写は、囲碁を単なるゲームとしてではなく、人間の知性、感情、そして時には運命が交錯するドラマの舞台として描き出した。これにより、囲碁の持つ文化的な価値や深みが、より広い読者層に印象づけられることになった。これらの文学作品は、囲碁が単なる盤上の遊戯を超えて、人間の精神性や芸術性を探求する道としても捉えられ得ることを示唆している。
表1:明治・大正期における主要囲碁団体(日本棋院設立以前)
団体名 | 主要設立者・指導者 | 設立年 | 主な活動・革新 | 最終的状況 |
方円社 (Hoensha) | 村瀬秀甫、中川亀三郎 | 1879年 (明治12年) | 実力主義、機関誌「囲棋新報」発行、級位制導入、オスカー・コルセルトへの指導 8 | 1924年日本棋院に合流 8 |
囲碁奨励会/四象会 | 本因坊秀栄 | 1892年 (明治25年) | 本因坊派の棋士育成、方円社への対抗 9 | 不明(秀栄の死後活動縮小か) |
裨聖会 (Hiseikai) | 鈴木為次郎、雁金準一、瀬越憲作、高部道平 | 1922年 (大正11年) | 総互先・コミ出し制、持ち時間制導入 8 | 1924年日本棋院に合流 8 |
中央棋院 (Chuo Kiin) | (当初)方円社・坊門合同の動きから。後に本因坊秀哉ら坊門中心 | 1922年 (大正11年)頃 | 本因坊派の拠点 8 | 1924年日本棋院に合流 8 |
六華会 (Rikkakai) | 小岸壮二ら若手棋士 | 1920年 (大正9年) | 若手棋士の研究会、地方新聞への棋譜掲載 8 | 1924年日本棋院に合流 8 |
表2:日本囲碁史における主要出来事年表(1868~1924年)
年 | 主要出来事 | 簡単な説明・意義 |
1868年 (明治元年) | 明治維新 | 幕府の庇護喪失、家元制度の動揺、囲碁界低迷期の始まり 7 |
1878年 (明治11年) | 「郵便報知新聞」に初の碁譜掲載 | 新聞碁の始まり、囲碁普及と棋士の新たな収入源への道が開かれる 6 |
1879年 (明治12年) | 方円社設立、機関誌「囲棋新報」創刊 | 村瀬秀甫らによる初の近代的プロ棋士団体。実力主義、囲碁ジャーナリズムの開始 8 |
1892年 (明治25年) | 本因坊秀栄、「囲碁奨励会」設立 | 方円社に対抗する本因坊派の組織 9 |
1907年 (明治40年) | 本因坊秀栄死去 | 本因坊家の混乱、大正期の碁界分裂の一因 9 |
1922年 (大正11年) | 裨聖会設立、「日本囲碁協会」趣意書配布 | 鈴木為次郎らによる近代的手合制度の導入。碁界大合同への機運高まる 8 |
1923年 (大正12年) | 関東大震災 | 囲碁界も大きな被害。各派の困窮が、逆に大同団結への動きを加速させる 8 |
1924年 (大正13年) | 日本棋院設立、機関誌「棋道」創刊、棋正社分離 | 大倉喜七郎の後援、本因坊秀哉・瀬越憲作らの尽力で碁界大合同が実現。プロ棋界の統一組織誕生。直後に一部棋士が脱退し棋正社を結成 7 |
表3:主要囲碁定期刊行物(明治~昭和初期)
雑誌名 | 発行団体 | 創刊年 | 主要な特徴・対象読者層 | 意義 |
囲棋新報 (Igo Shinpo) | 方円社 | 1879年 (明治12年) | 世界初の囲碁雑誌。方円社の棋譜と評、段級位発表。プロ・アマ向け 8 | 囲碁ジャーナリズムの先駆け、方円社の理念普及、知識の公開 |
方円新報/碁界新報 (Hoen Shinpo / Gokai Shinpo) | 方円社 | 1907年 (明治40年) | 「囲棋新報」より趣味的。講座や読み物も掲載 8 | 囲碁文化の多様な側面を提供 |
囲碁初学独修新報 (Igo Shogaku Dokushu Shinpo) | 方円社 | 1900年 (明治33年) | 初段以下対象の姉妹誌 8 | 初心者層への普及 |
棋道 (Kido) | 日本棋院 | 1924年 (大正13年) | 日本棋院機関誌。棋戦情報、棋譜、ニュース、独自企画。プロ・アマ向け 12 | 日本棋院の公式情報発信、囲碁普及、囲碁文化の創造 |
爛柯/囲碁倶楽部 (Ranka / Igo Club) | 日本棋院 | 1925年 (大正14年) | 「棋道」姉妹誌。後に「囲碁倶楽部」と改題。より大衆向けか 12 | 読者層の拡大、多様なニーズへの対応 |
大手合週報 (Oteai Shuho) | 日本棋院 | 1927年 (昭和2年) | 大手合の情報提供を主目的とする週報 35 | 公式戦情報の迅速な伝達 |
引用文献
- 初代本因坊算砂と御城碁の始まり – 囲碁の歴史 | 囲碁学習・普及活動 | 囲碁の日本棋院, 5月 30, 2025にアクセス、 https://www.nihonkiin.or.jp/teach/history/history02.html
- 明治・大正時代の碁会の苦節 – 日本囲碁ソフト, 5月 30, 2025にアクセス、 https://www.igosoft.co.jp/html/gakkou/history/rekisi08.htm
- 【学長通信】将棋の話、囲碁の話 – 大妻女子大学, 5月 30, 2025にアクセス、 https://www.otsuma.ac.jp/news_other/info/102283/
- 囲碁 – Wikipedia, 5月 30, 2025にアクセス、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E7%A2%81
- 東アジアに展開される碁ビジネス −現代的な創造産業としての現状と可能性−*, 5月 30, 2025にアクセス、 https://shiten.agi.or.jp/shiten/200909/shiten200909_27-36.pdf
- 第2章 囲碁をめぐる制度|本の万華鏡 第22回 日本の囲碁-白と黒の …, 5月 30, 2025にアクセス、 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/22/2.html
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- 國立臺灣大學文學院日本語文學系所 碩士論文 日本統治時代における台湾の囲碁の史的考察 The h, 5月 30, 2025にアクセス、 https://tdr.lib.ntu.edu.tw/bitstream/123456789/1095/1/ntu-107-1.pdf
本記事はGoogle Deep Research が作成しました。
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